玉山村好摩に暮らす種市氏は今年で73歳。柔らかな笑顔で迎えてくれた後、遠い記憶を呼び覚ますようにゆっくりと語り始めた。
昭和5年、安代町に生まれた種市氏にとって、鶏は馴染み深いものだった。近所の農家は皆、庭先で鶏を飼っていたし、何よりも鶏好きのお兄さんの存在があった。お兄さんは趣味としてシャモや声良鶏を飼育しており、種市少年も一緒に世話をし、鶏と触れあう毎日を過ごしていたのである。
「鶏ッコはめんこいなあって思っていた」と氏が語るように、鶏の存在は少年の心に生き物と触れる喜びをもたらしたようだ。
しかし、その後戦争が始まり、世の中は鶏どころではなくなってしまう。終戦を迎えた時、種市少年は15歳。盛岡に進学し、教師の道へと歩み始めた種市氏の頭には鶏の存在はなかった。
昭和26年、学校を卒業した種市氏は、岩手町の沼宮内小学校に赴任。教師として子供たちとともに過ごす実りある日々が待っていた。鶏と再会したのは、その頃であった。
縁があって愛鶏家が組織する日本家禽会より、品評会で入選を果
たしたチャボが沼宮内小学校に寄贈されたのである。 「今でもこそ、学校で生き物を飼育するのは当たり前ですが、当時は前代未聞。だから生徒に任せるというよりは先生が責任を持って面
倒をみるということになった。それで、白羽の矢を立てられたのが私でした」
鶏の飼育経験があるからということで任された大役。チャボの鶏舎を掃除し、餌をあげるにとどまらず、他の学校から見学にくる先生の相手もしなくてはならない。なかなか大変な仕事だったが種市氏にとっては「昔可愛がった鶏の思い出が甦ってくるようで、だんだんと鶏の魅力に引き込まれていったんですね」と、充実した時間だった。 |
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このチャボとの出会いがきっかけにより、種市氏は、チャボを寄贈してくれた日本家禽会の会員と親好を深め、週末には県内外あちこちの鶏舎を尋ね歩くようになっていた。
そして、30歳を過ぎたあたりで正式に日本家禽会へと入会。晴れて愛鶏家の1人となった種市氏は、東京で開催された品評会でチャボを購入し、自宅でも鶏を飼い始めたのである。
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小国鶏の持つ文化的価値に
早くから気付いていた種市啓介氏。 |
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